最初 

じわりと湿った空気と泥の臭いの中に降り立つ。枯れているとはいえ、元は井戸だ。油断すると簡単に足元をとられてしまう。
見張りを眠らせ、縄を用意し、ここへの段取りは本当にイエンマオの部下がやってくれた。というよりぶっちゃけ、部下がいなければ、さっきの出来事を夢で終わらせることができたんだが、世の中そう甘くはない、か。
まぁ、夢だったとしてもそれはそれで困ってた。薬がまがいもんだったら、タオファはいまだに苦しんでいただろう。半信半疑で薬を飲ませたら、だいぶ楽になった様子だった。顔色が良くなったときは心底安心したもんだ。とりあえずもう大丈夫だろう。そこの部分は感謝する。そこは。
しかし、ここの妖魔は、どうもべちゃべちゃしてて気分がよくない。さして強くはないが、棍で殴れば、棍にべちゃべちゃしたそれがつくし、あたりに飛び散るし服につくし。俺が女だったら多少のサービスになったかもしれんが、生憎俺はガタイの良さが売りの修羅。
まぁそんなべちゃべちゃを適当にあしらいつつ、奥へと進む。てか、ホントに妖魔の密談なんてあるのか?いくら進んでも、そういう様子は見当たらねーぞ。
そういう疑りが深くなってきたとき、頬に風を感じて振りかえる。井戸のじめった空気とは違う、他の場所の空気の流れ。不思議に思い、そちらの方へ歩いてみると、暗い井戸から別の場所へと移る、一筋の光がみとめられた。
行ってみるか。
体と棍についたベトベトをぬぐいつつ、光を目指す。一筋の光は縦へ、さらに近づくと横へと広がり、数人くらいが通れるくらいの大きさになった。空間に余裕ができたな、と思いあたりを見回すと、ただ土を掘り進めた穴ではなく、きちんと整備してある壁がある。どうやらどこかの地下室のようだ。
井戸の場所、歩いた方向から考えれば、長陽の役所の地下ってことになるはずなんだが……。

「ふん!思い切って全員食べてしまえば、手間が省ける!」

煽り声にはっとし、反射的に壁に身を寄せる。人間には発せられない、ガラガラと唸りが混じったような低い声。やっとお目当てが見つかったようだ。向うには見えないよう、そっと目だけを覗かせ、光の元を伺う。
そこにいたのは、虎が二足歩行をしたような妖魔の後姿。豪腕についている筋肉は、金色の毛皮に隠れきれていない。手足についている爪は、薄暗い光でも十分に反射させて、その鋭さを主張している。

「妖虎、ちょっとは頭を使えないのか?
 そんなことをしたら、目立つに決まっているだろう」

明らかにそれとは違う声がした。手前の妖魔の印象がデカすぎたが、妖虎と呼ばれた妖魔の奥を見ると、道士の格好をした黒い肌の人間が一人、腕を後ろに組んで佇んでいる。赤い釣り目で、落ち着いた声。その話し方からして、おそらくは頭は回るほうだろう。どこからどう見ても人間だが、この場にいるということは、人魔といったところだろうか。

「ニョホ〜!どっちみち、止める奴がいたらそいつを食っちまうさ!」
「あのな、片っ端から食っていってどうする。この任務は火鳳凰様にとって重要なんだから、下手に動いてお叱りを受けても知らんぞ?」
「も、もちろん判っているさ!でも、どうしろっていうんだ?」

ため息をつきながら妖虎を諭す黒道士。バカに説明するのはいやになるといった調子で頭を抱える。
どうやら、話の本題に入るようだ。これは聞き逃してはならない。

「何故ここで話をしていると思っているんだ?
 つまり、長陽城を操作できるようにするんだ。太守を拉致して、取って代わればいい。
 が、ひとつ問題がある」
「問題?」
「甲骨の剣客だ。こいつが、常に太守の護衛をしているから、なかなか手を出せない」
「ニョホ〜、黄帝剣派の人間が噛んでいるとなると、やりにくいな」
「そして――
 そこの貴様。そろそろ聞き飽きただろう、まだ出てこないのか?」

道士の声色が変わる。チッ。どうやら気付かれていたらしい。軽く舌打ちをして、仕方なく二人の妖魔の前に姿を見せる。
妖虎のほうは、そこで初めて俺の存在に気付いたようだ。ぎろりと目を光らせ、牙をむき出しにし、かみつかんばかりの勢いで吼えた。

「どこから来たガキだ!俺らの話を盗み聞きするやつは、食ってやる!」

バレちゃしかたねぇ、何とかこじつけてこの場をやり過ごさんと。
そもそも、ここから妖魔側に入り込んで情報を集めるのが目的だ。むしろ向うからこっちに気付いてきたのはある種好都合だったのかもしれない。

「や、わりわり。なかなか出る機会なくてよ。俺の上司から話は聞いてたんだが」
「なんだ?貴様、人間のくせにこちら側だとでもいうつもりか」

道士のほうが疑いの目で俺を見る。道士自身も人間にしか見えないのだが、妖魔から見たら人魔と人間って見分けつくもんなのか。ついでに俺のことを人魔と思ってくれれば世話はなかったんだが、どうやらそううまくはいかないらしいな。

「まー疑われるのもしゃーねぇけどさぁ。
 俺の上司は頭いいんだ。お前さんらが相手にしてるのは人間だろ。なら、人間のことをよく知ってる部下、つまりは人間を部下にするのがいいだろって考えが前からあったらしい。んで、それが俺ってわけだ」

ぼりぼりと頭をかきながらさも当然のように言い放つ。一応筋は通っているはずだ。
俺の話を聞いていた道士は、やはりさっきの目を暫く俺に向けたまま、腕を組んで考え込んでいたが、何かが疑問になったらしく、俺に問いかけてきた。

「して、その上司ってのは、誰なんだ?」
「え?あ、んーと……えーとだな」

答えが書いてあるわけではないが、上を向いたり、下を向いたり、記憶の奥から引っ張り出そうと頭を回す。
えーとなんだっけ。旅館でイエンマオがちらっと言ってた気がする。誰の部下と言っておけ、っつったんだっけ。

「水じゃねーし、湖じゃねーし、水色でもねーし、み……ここまで出掛かってんだが」
「蛟?」
「そうそれ!」

暫く流れる沈黙。
うわ、疑ってる!めっちゃ疑ってる!さっきのとは比べ物にならないほど明らかに疑ってる!!
うわ、疑ってる!めっちゃ疑ってる!さっきのとは比べ物にならないほど明らかに疑ってる!!
なんというか、道士は判るんだが、顔のつくりが完全に違う妖虎にまで同じ顔されるのは結構凹む!

「人間、説得力というものが無いぞ」
「わーりかったな、名前覚えんのは苦手なんだよ!」
「黒狐道士、やっぱりこいつ食うか?」

むしろ真顔で問いかける妖虎。頼むから冗談にしておいてくれ。
道士は、やれやれといった言葉が聞こえてきそうな調子で俺に言った。

「そこまで言うなら、甲骨の剣客をお前に任す」
「剣客を?」
「さっき言った話は聞いていたんだろう?あいつをひきつけておいてくれ」
「ということは、俺を信用してくれるのか?」
「ああ。ただし今回だけだ」

なんとかなるもんだ。心の中で胸をなでおろす。
が、安心ばかりもしていられない。道士の目にはまだ疑いの色が残っている。今回だけ、というより、今回のことで俺を試すつもりなのだろう。下手に失敗すれば、妖虎のエサになるのは目に見えている。
気ぃひきしめてかからんといけねぇな、こりゃ。

「ありがとうよ、黒狐」
「どういたしまして、人間」

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